経済とともに生きる
普段、意識することはなくても、僕らは生まれたときから社会経済のなかで生きている。買い物をしたり、学校に行ったり、仕事をしたりするのはもちろん、誰かの作った道を歩いたり、スマホをいじったりするのもそうだ。僕らはこれからも、経済とともに生きていく。
でもそれってどういうことなんだろう。経済とともに生きるとはどういうことなのか、あまり考えたことはなかったし、いまいちわかっていないのかもしれない。
経済というと、お金のことかな、と思う。だけどお金というのは単に通貨のことで、肝心なのは何かに「値段がつく」ということだ。値段がつくものに対してだけ、お金というものは機能する。
そう考えると、経済というものの根本は、「分業」なのかな、と思った。もしも世界に生きる人すべてが自給自足のみの生活を送っていたら、何にも値段はつかず、お金というものは存在しない。社会が自給自足ではなく「分業」を指向しているから、モノやサービスに値段がつくのだ。
狩猟採集をしていた時代の人間にはきっと、分業という概念は薄かっただろう。だけど獲物を追い込む者、矢を投げる者、罠を仕掛ける者、といった「役割」は自然に芽生える。器を作るのが上手い者は狩猟に参加せず器を作る、といった分業めいたこともあったかもしれない。
狩猟から農耕に文明が発達したとき、分業は加速しただろう。道具を作る者、運ぶ者、交易する者、占う者、加工する者、歌う者、守る者――。やがて貨幣が生まれ、それらがさらに加速した先に、現代がある。
現代の僕らは目もくらむほどの分業体制のなかで生きている。分業の海のなかで、価値と価値を交換するために、お金が血液のようにめぐっている。
僕は小説を書いているので、小説家と呼ばれる。だけど小説家といっても、歴史小説やミステリー小説を書いているわけではない。小説家などという、吹けば飛ぶようなニッチな職業のなかでも、実はさらに細かい分業がある。
僕は理系出身で、音楽をずっとやっていて、青臭いものが好きで、といったバックボーンでモノを書いていて、それを好んでくれる人がいるから小説家でいられる。同じように、一つの職業のなかでも、やり方やアプローチやお客さんが違えば、それも分業と言えるのだろう。
仕事にも消費にも多様性があるから、経済の血液はめぐる。多様性がなければ、その血液は留まったままだ。今までに書かれた他の小説とは少しだけ違う何かを求めて、僕はこれからも小説を書きたい。
ただ一つの正解だけがあるのではない。自分にとっての正解を大切にし、また他人の正解を尊重する。経済とともに生きる、というのは、そういうことなのかな、と思う。