TOMONI
GO TO 2100 ともに生きる江戸川区

落ちるのにうってつけの日

荻堂 顕Ogido Akira

 昔から、辛いことがある時は川を眺めに行った。海ではなく、川がよかった。向こう岸には建物が立ち並び、線路を電車が走り、人々の生活がすぐそこにある。川は、そういう平穏のなかに突然現れる大きな水の流れだ。心がどんよりとしているせいか、澄んでいない方がより安心できた。どこかに行けそうで、どこにも行けない感じがするから。
 引っ越してきてから数日もしないうちに、僕はこの河川敷を見つけた。学生に対する補助金が都内で最も手厚いという理由で、母さんはこの区を選んだ。父親がいない僕たち親子にとって、この試験に合格することは悲願であり、将来の希望そのものだった。しかしながら、まったく同じ理由で越してくる学生は多く、それだけ競争も厳しいものになり、僕は三年連続で不合格となっている。今年もダメなら、もう無理かもしれない。
 昨日が大雨だったからか、目の前の流れは速く、激しく、名前の通りに荒々しい。僕は立ち上がり、これまでに三度歩いた道を重い足取りで進む。
 暑くて、風はない。
 試験にはうってつけの日だ。

 バスは出ていたが、歩いている方が気持ちが落ち着いた。十五分ほどでなぎさ公園へと辿り着き、試験会場の丘へと向かうと、試験官らしき男性と、もうひとりの受験生が先に到着していた。わずかに腹の出た試験官は、箒を三本持っている。ひとつは私物だろう。歩くのが億劫になるようで、学校の先生たちもふくよかな人が多かった。
「時間ちょうどに開始する。点検は済ませてるが、自分でも確認するように」
 僕は頷き、もうひとりの受験生を見ないようにしながら箒を受け取った。在学中は、区から貸し出される箒しか使えない。地域によって先端の飾りが異なっていて、この区では小さな風鈴が付いている。
「問題はないか?」
「……はい、大丈夫です」
 初めて落ちた時は、箒のせいにした。次の年は入念に点検し、違うものに替えてもらいもした。それでまた落ちたのだから、以降は確認しないことにしていた。
「それでは、最終試験を始める。内容は、……ふたりとも分かっているね?」
 試験官は手元の書類を確認しながらそう言った。説明が省けて助かるという感じの口調に聞こえた。ふたりともということは、たぶん相手も過去に落第している。
 そのことに安堵し、僕は初めて、もうひとりの受験生を見た。相手は外国人の女の子だった。僕よりも二、三歳は下だろう。大きな瞳が印象的で、名札には「ハリシャ」と書かれている。学校でもよく見掛けたし、インド系だろう。彼女たちの祖国では、女の子は魔法学校に通えないし、魔法使いにもなれないのだと聞いたことがある。
 僕とハリシャは向かい合って立ち、儀礼的にお辞儀をしてから箒に跨った。
 幸い、空を飛ぶのは得意だった。
「始め!」
 試験官が言い終わる前に、僕は飛び上がった。彼女が姿勢を安定させる前に仕掛けるつもりだったが、こちらが杖を出した瞬間、彼女は左右に揺れたままの箒で全速力を出すことを選んだ。スペックの差が出ないように、箒の機種は同じ。速度で負けているのは、彼女自身が僕よりいくらか軽いからだろう。
 風がないおかげで、飛ぶことに割く意識は最小限でよかった。僕はハリシャの後方を飛び、直線上に並ぶタイミングで杖を振った。僕の腕では、直撃させることはできない。少しでも擦れば、姿勢が崩れる。狙いたいのはそこだ。
 箒の穂先に向けて、火球を放つ。
 衝突する寸前で、瞬く間に火が消えていく。
「防御魔法か」
 どうやら長期戦に持ち込むつもりらしい。二年前の僕と同じだ。
 ハリシャは高度を下げながら葛西駅の方へと向かっていく。建物や民間人に被害を出せば、大幅な減点になる。そのため、人が多いところでは攻撃魔法を使いにくい。速度を活かして逃げ回り、こちらの不意を突く作戦だろう。

——一時間以内に相手を落とした方の勝ち。

 最終試験の課題は、それまでの授業や試験が何だったのかと呆れてしまうくらいに単純明快だ。空域に制限が設けられ、自由に飛べるのが一握りの魔法使いになった今でも、飛行魔法は重要な位置を占めている。卒業生でなければ箒の所有が許されないのも、それが理由だ。
 足元に荒川が見える。
 低ければ低いほど重力の干渉を受けやすい。飛ぶことはさほど得意ではないのか、ハリシャは最初の高度に戻っていた。時折後ろを振り返りながら、呪文を唱え、防御魔法を重ねがけしている。火球の威力は低いが、そのぶん手数を多くできるという利点がある。防御魔法さえ突破できれば、勝算はある。
 ふいに、ハリシャが高度を下げた。
 何か仕掛けてくる。
 川を利用した水魔法かもしれない。距離を取るために速度を落とし、防御魔法の準備をする。彼女は川面すれすれを飛んでいて、下に向かって手を伸ばしている。よくは見えないが、杖を落としたらしい。
「……運の悪いやつ」
 可哀想だとは思った。
 でも、僕だって受かりたい。
 呪文を省略せず、最大出力の風魔法を唱える。これなら、さっきまでの防御魔法を打ち破れる。火球にしなかったのは、せめてもの情けだった。
 射程圏内まで近付いて風を飛ばした瞬間、ハリシャの手が溺れている子供の手を摑んだのが見えた。
 箒が吹き飛び、彼女は川へと落ちていく。流れは速く、目を離せばあっという間に消えてしまいそうなほどだった。溺れていた子供は、ハリシャの体に必死にしがみついている。そのせいで、彼女は杖を出せずにいた。
 僕は高度を下げ、浮遊魔法を唱えた。
 だが、浮かせられなかった。
 激流のなかで、なんとか流されずに留まらせるのが限界だった。杖から伝わってくる振動に、手首が持っていかれそうになる。苦手な魔法のひとつで、自分の体重と同程度のものしか持ち上げられない。ふたりもいて、なおかつ流されていては、さらに重く感じられた。しがみつかれているハリシャは、川面から顔を出すのがやっとのようで、浅い息継ぎを何度も繰り返している。
 箒から降りれば。
 飛行に割いている魔力をこちらに回せば、いけるかもしれない。
 でも、それはダメだ。箒から降りることは失格を意味する。現時点で勝っていても、降りてしまえば、それは途中放棄を意味する。合否判定の基準は何百回と読み返している。
「先にこの子を!」
 懸命に口を上に向けて、彼女は叫んだ。
「……君はどうするの?」
「なんとかできるから、はやく!」
 ひとりだけ浮かせるために、ハリシャは自分の体から子供を引き離そうとしている。たぶん、彼女は泳げない。僕もそうだし、泳げる魔法使いの方が珍しい。
「はやく!」
 ハリシャは泣いていた。彼女がどんな気持ちでこの試験に臨んだのか、今回で最後にしようと思っていた僕には、よく分かる。
それでも、彼女は助けることを選んだ。
 自分の未来よりも、他人の命を。
 きっと、すでに勝敗は決まっていたのだ。
 岸まで全速力で飛び、箒から降りる。そして、もう一度浮遊魔法を唱えた。ふたりの体は川面すれすれを力なく漂い、なんとか岸へと不時着させられた。失格を告げるように、柄に付いていた風鈴が割れる音が聞こえた。
「……どうして?」
 ずぶ濡れのハリシャは、杖を出して服を乾かすのよりも先に、そう詰め寄ってきた。半分は責めているようで、もう半分は理解できないという感じだった。
「わたしなんか放っておけば、あなたは合格できたのに」
「受かるべきは君だった。僕は合格すべきじゃなかった」
「受かりたくなかったの?」
「受かりたかったよ。……でも、こんな形で受かっても、誇れないと思う」
 母さんは魔力を少しも持っていない。僕の魔力は、父親から遺伝したものだった。母さんにとって、僕が魔法使いになることは、自分たちを捨てた人間を見返す行為そのものなのだと思う。そう分かっているからこそ、正しいやり方で勝ちたかった。
「勝ったのは君だよ。今回は、負けたのに嬉しいって感じがする」
 探索魔法を使って探し出した彼女の箒を足元に置く。案の定、割れてしまっていて、僕は得意な修復魔法で風鈴を直した。治癒魔法はハリシャにお願いしようと思っていたが、溺れていた男の子は自分で歩けるくらいには元気で、僕たちにお礼を言うと、河川敷に向かって歩いて行った。
 僕の試験は終わってしまったが、すぐに戻る気にはなれなかった。それはハリシャも同じようで、僕たちはその場に腰を下ろし、荒川を眺めた。何の因果か、試験が始まる前と同じ景色だった。
「たまに、ここに来るの」
「どうして?」
「わたしの故郷の川に、少しだけ似てるから」
 それっきり、彼女は何も言わなかった。
 この景色がどこかと繫がっているだなんて、今まで考えたこともなかった。どうしても受かりたいという敵意にも似た共通点以外で、彼女と僕に同じものがあるだなんて、思ってもみなかった。
「……そろそろ行こうか」
 ハリシャが頷くのを見て、僕は立ち上がった。気を抜けば泣いてしまいそうで、 彼女の方は向けなかった。
「あのさ」
「なに?」
「僕のぶんも頑張ってね」
 彼女が頷いてくれたかどうかは分からなかった。僕たちは空を飛び、終了時刻ぎりぎりで試験官のいる丘に戻った。僕は箒を返し、「負けました」と告げた。試験官は僕には目もくれず、ハリシャの箒に浮遊魔法を掛けて浮かせると、風鈴を指で押した。どういうわけか、鳴らなかった。
「ちゃんと修復したのに、なんで……」
「そういう仕組みになっている。不正が起きないようにね」
 咄嗟に視線を向けると、ハリシャは気まずそうに俯いていた。もしかしたら、このことを知っていたのだろうか。
「彼女は溺れている子供を助けたんです! 僕はそれを……」
「攻撃して、その時点で君の勝ちが決まった。そして、そのあと自ら箒を降りた」
 冷静な声色でそう説明しながら、試験官は手元の書類にペンを走らせている。
 やはり、今年もダメだった。助けなければよかったと、思ってしまう。そうすれば、これまでの辛い思いが報われたはずなのに、またしても失敗してしまった。でも、落ちたことよりも、そんなことを考えてしまう自分が、何よりも情けなかった。
「それでは結果を伝える」
 名前を呼ばれ、顔を伏せる。
 ハリシャも呼ばれたが、彼女も返事をしなかった。
「ふたりとも合格だ」
「え?」
 先に反応したのは僕だった。泣きそうなのを堪えながら帰るのには飽き飽きで、今年は箒を蹴り飛ばすくらいしてやろうと身構えていたから、彼女よりも早かったのだろう。
「どうして?」
 次は、ほとんど同時だった。最終試験は、相手を蹴落とすことでしか合格できない仕組みになっている。ふたりともが合格できるだなんて、聞いたことがない。
「魔法修習生として、この区のスローガンは知っているな?」
 入学式の日に聞いた気がするが、興味がなかったので覚えていない。ハリシャも分からないようで、僕たちは首を横に振った。それを見て、試験官は困ったように頭を搔いた。
「ともに生きる。……魔法使いと人間だけではない、異なる人種、異なる信教、異なる価値観の魔法使いたちと理解し合い、生きていく。それができなければ、どれだけ強力な魔法が使えようとも、魔法使いを名乗る資格はない」
 羊皮紙を渡される。
 受け取るのは四度目だったが、合格の判子を見るのは初めてだった。
「我々は君たちを、この世界の未来を任せられる立派な魔法使いだと判断した」
 ハリシャと顔を合わせる。
 涙ぐんでいたはずの彼女が笑みを浮かべたのを見て、自分が派手に泣いていることに気付いた。恥ずかしくて、すぐに堰き止めの魔法を使おうとしたが、ベルトに挿さっているはずの杖がどこにも見当たらなかった。もしかしたら、さっき座っていた時に落としたのかもしれない。
「……これからは気を付けるように」
 肩をぽんと叩くと、試験官は箒に跨り、空高く飛び上がって行った。公園のツツジたちが、僕とハリシャのことを祝福するように朗らかに歌っていた。

Profile

荻堂 顕

1994年3月25日生まれ。東京都出身。
早稲田大学文化構想学部卒業後、様々な職業を経験する傍ら執筆活動を続ける。2020年、『擬傷の鳥はつかまらない』で第7回新潮ミステリー大賞受賞。

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