TOMONI
GO TO 2100 ともに生きる江戸川区
中村航
Vol.3,5,6,7,8

○○とともに生きる

中村 航Nakamura Kou

人とともに生きる

僕は小説や歌詞を書いているが、つまるところそれは人を書いているということだ。例外はあるかもしれないけれど、小説でもエッセイでも歌詞でも、そこに書かれてあるのは人のことだ。

書くときは主人公という人を想像し、その人になりきったり、その人から見た君や、あなたや、仲間や、家族や、ライバルのことを想像する。人と人とを関係させ、そこに生まれる気持ちや、関係性の変化を想像する。その人たちの願望や、運命や、現実を想像する。

A君はBさんに出会って恋に落ちたけど、C君と出会ったらどんな反応をするだろう。そのときDさんは何て思うだろう。Bさんの両親はどんな人で、A君のことをどう思っているだろう。C君とEさんは中学生のときどんな会話を交わしたのだろう。などと頑張って、いろいろなことを想像する。

とはいえそんな個人の想像力などあざ笑うかのように、世の中には多種多様な個性や、生き方や、関係性がある。想像なんて追いつくわけがない。事実は小説より奇なり、なんてことを言うけれど、そんなのは当たり前以前の、真実的な事柄だ。

一番親しい人のことだって、僕らはどれほどわかっているのだろう?

知っている、わかっている、といっても、それはやっぱり、ちっぽけな想像にすぎないんじゃないだろうか? どんなに身近な人だったとしても、丹念に説明してもらったとしても、結局のところその内面は、想像するしかない。想像を何度も何度も繰り返しているうちに、その精度が上がったように感じ、その人のことを理解した気になっている……だけなんじゃないだろうか。

そんな人だとは思わなかった、とか、あなたには失望した、とか、トラブルが起こったときによく聞くような科白がある。もしそんなふうなことを言ったり、感じたりすることがあったら、それはつまり自分の想像が至らなかったということだ。相手に対する想像が、ねつ造になっていたのかもしれない。

人は人とともに生きる。

そうするしかないし、そうしたいと願っている。ならば相手を尊重し、誠実に対話し、想像し、理解に近付いていくしかない。個々の人間は、多様な存在のまま尊重されるべきだが、自分にできることは、たった一つしかないのだから。

自分以外の他者を理解しようとし、尊重する。

そのことはきっと、自分の喜びや楽しみに繋がる。僕もそうだし、みなさんも同じではないだろうか。僕らは人に興味を持って、話をたくさん聞きたい。古今東西の出来事や歴史に触れ、そこにどんな感情や事情があったのか思いを馳せたい。あなたの本当の気持ちを知りたい。

キーになるのは想像力だ。あれこれ想像するのは、やっぱり楽しいわけだし。

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社会とともに生きる

昔、少年団の夏合宿で「ジェンカ」というゲームをすることになった。

まずはトーガとチームを作りジャンケンをする。勝った僕の後ろに回ったトーガが、僕の両肩を両手で持つ。

坂本九の軽快な音楽に合わせて、僕らはステップを踏んだ。左足を前に二回出し、右足を二回出す。両足揃えて前に一歩ジャンプ、後ろに一歩、前へ三歩——。それを何度か繰り返し、相手チームへと近付いていく。音楽が止まったところで、ぶつかった相手チームの先頭とジャンケンし、負けたら勝ったチームの列の後ろに繋がる。

つまり最初は二人組だったチームが、次には四人組になり、その次には八人組になっていくゲームだ。だけど僕とトーガはどのチームからも逃げ回り、ジャンケンをしなかった。最後に一回だけ勝って、優勝チームになろうという、ふざけた作戦だ。

やがて、ずっと勝ち続けて何十人かの列になったチームが二つ、最終決戦のようにジャンケンをした。結果、勝ったチームは百人を超える大軍団になったけど、逃げ続けた僕とトーガの二人組がまだ残っている。

軽快な音楽が再び鳴ってやがて止み、二人組の僕らと、百人王者とのジャンケンが行われた。ちょっと気まずいな、と思いながらも、僕らはあっさり勝ってしまった。うしゃしゃしゃしゃ、とトーガは笑い、僕らを見ていたマッキーやイワちゃんも笑った。

それは小学四年生の夏のことで、それから時が流れ、僕らは大人になった。僕はメーカーに就職してエンジニアになり、トーガは農業機器の営業マンになった。イワちゃんは製薬会社に入社し、マッキーは県警の刑事になった。

大人になった僕らに「ジェンカ」をする機会なんてないけど、もししたらどうするだろう。僕とトーガは、かつてのように逃げ回るのだろうか?

多分しない、と思うその理由を考えてみた。

遊びなのだから、みんなで楽しくするのが一番だ——。勝ち上がって嬉しい気持ちの膨らんでいる人に申し訳ない——。みんなが僕らと同じ戦略を取ったらゲームにならない——。というか、恥ずかしい——。子どもなら微笑ましいかもしれないが、さすがにバカっぽい——。

大人になることを「社会に出る」と言ったりするが、つまり自立して生活していく場のことを僕らは社会と呼び、そこにはルールや責任があることを知っている。明文化されたルールを守るということだけではなく、普段の社会生活のなかで、どう振る舞うべきかを考えることもある。

他人に迷惑をかけるべきじゃないし、なるべく不快な思いをさせないようにしたい。困ったときはお互い様だ。何かしてもらった時やお店なんかでは、ありがとう、と感じ良く言う。より良い社会を作ろうとする気持ちを、みんなが少しずつ持つために、まずは自分がそれを持ちたい。

企業のスローガンなんかで、社会に貢献する、という言葉をよく目にするが、それはただのお題目なんかではなく、僕らが割と本質的に思っていることではないだろうか? 社会の役に立つことは、実は何ごとにも代えがたい喜びだったりする。それによって人に認められたと感じ、自分に誇りを持てたりする。

ジェンカだって同じだ。逃げ回って勝つのも、まあ別に良いとは思うし、それはそれで楽しかった。だけど普通にあるべきやり方で優勝したら、そっちのほうが嬉しかったかもしれない。

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経済とともに生きる

普段、意識することはなくても、僕らは生まれたときから社会経済のなかで生きている。買い物をしたり、学校に行ったり、仕事をしたりするのはもちろん、誰かの作った道を歩いたり、スマホをいじったりするのもそうだ。僕らはこれからも、経済とともに生きていく。

でもそれってどういうことなんだろう。経済とともに生きるとはどういうことなのか、あまり考えたことはなかったし、いまいちわかっていないのかもしれない。

経済というと、お金のことかな、と思う。だけどお金というのは単に通貨のことで、肝心なのは何かに「値段がつく」ということだ。値段がつくものに対してだけ、お金というものは機能する。

そう考えると、経済というものの根本は、「分業」なのかな、と思った。もしも世界に生きる人すべてが自給自足のみの生活を送っていたら、何にも値段はつかず、お金というものは存在しない。社会が自給自足ではなく「分業」を指向しているから、モノやサービスに値段がつくのだ。

狩猟採集をしていた時代の人間にはきっと、分業という概念は薄かっただろう。だけど獲物を追い込む者、矢を投げる者、罠を仕掛ける者、といった「役割」は自然に芽生える。器を作るのが上手い者は狩猟に参加せず器を作る、といった分業めいたこともあったかもしれない。

狩猟から農耕に文明が発達したとき、分業は加速しただろう。道具を作る者、運ぶ者、交易する者、占う者、加工する者、歌う者、守る者――。やがて貨幣が生まれ、それらがさらに加速した先に、現代がある。

現代の僕らは目もくらむほどの分業体制のなかで生きている。分業の海のなかで、価値と価値を交換するために、お金が血液のようにめぐっている。

僕は小説を書いているので、小説家と呼ばれる。だけど小説家といっても、歴史小説やミステリー小説を書いているわけではない。小説家などという、吹けば飛ぶようなニッチな職業のなかでも、実はさらに細かい分業がある。

僕は理系出身で、音楽をずっとやっていて、青臭いものが好きで、といったバックボーンでモノを書いていて、それを好んでくれる人がいるから小説家でいられる。同じように、一つの職業のなかでも、やり方やアプローチやお客さんが違えば、それも分業と言えるのだろう。

仕事にも消費にも多様性があるから、経済の血液はめぐる。多様性がなければ、その血液は留まったままだ。今までに書かれた他の小説とは少しだけ違う何かを求めて、僕はこれからも小説を書きたい。

ただ一つの正解だけがあるのではない。自分にとっての正解を大切にし、また他人の正解を尊重する。経済とともに生きる、というのは、そういうことなのかな、と思う。

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環境とともに生きる

マンションのベランダにスイレン鉢を置いて、水と土を入れた。水草を植えて一週間くらい放置した後、メダカとタニシを入れると、循環する小さな生態系ができあがった。

太陽を浴びた水草が光合成し、酸素を発する。スイレン鉢に発生した微生物が、メダカの餌になる。メダカのフンが水草の栄養になり、鉢に付いた藻はタニシがきれいにする。

エアポンプや濾過フィルターを必要としない、こんな感じの環境を、ビオトープと呼ぶらしい。小さなそのビオトープを眺めるのが楽しいのは、そこに“調和”や“永遠”を感じるからだろう。

とはいえ、その世界はその世界だけで、完全に循環しているわけではなかった。ときどきだけど外から餌をやることもあるし、水を足すこともある。鉢の掃除をすることもある。そして永遠でもなかった。

メダカは二〜三年くらい生き続けたが、あるとき急に全滅してしまった。カラスに襲われたか、飛んできたトンボの卵から生まれたヤゴに襲われたか、台風のときに鉢から飛び出てしまったのか、理由はよくわからない。ビオトープの永遠を作った気になっても、それを維持するのはなかなか難しい。

ビオトープという言葉は、Bio(命)と、Topos(場所)を組み合わせた造語らしい。

命はビオトープという環境のなかで循環する。スイレン鉢にビオトープを作ろうとすることもあるし、もっと大がかりに、森や河川などを中心に手つかずの自然を残すことで、ビオトープを作ろうとすることもある。もっと言えば、地球を一つのビオトープだとみなすこともできる。

スイレン鉢のビオトープは二〜三年しかもたなかったが、地球という大きなビオトープ(環境)では、三十五億年あまり、生態系が維持されてきた。今から数百万年前に人類が誕生してからも、それは全く変わらなかっただろう。

だから本当に最近のことだ。人間が高度な文明を持って三千年と考えてもいいし、産業革命以降の二百年と考えてもいいけど、どっちにしても三十五億年前とか数百万年前とかと比べたらつい最近のことだ。このビオトープの様相は、ここ最近、急激に変わってきたと言っていいだろう。

今、環境問題というものが、様々な視点で語られている。スイレン鉢のビオトープがカラスとかトンボとかの要因でなくなってしまったように、地球が突然、生態系を維持できなくなる、というのも、想像できない話ではなくなっている。

誰もそれを望んでいなくても、僕らがカラスやトンボになってしまうことはあり得る。節電とか、ゴミを減らすとか、自分にできることは少ないかもしれない。だけど、今できることはやろう、と思うし、できることを増やそう、と思う。

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未来とともに生きる

 幼い子どもと触れあったりするとき、その子の未来を想像したりする。
 この子が今の自分くらいの歳になったとき、社会はどうなっているんだろう。そのときこの子は、どんなことを思いながら、どんな生活をしているんだろう。さらにこの子の子どもの世代に、世界はどうなっているんだろう。

 未来の世界、というと『ドラえもん』のことが思い浮かぶ。
 僕が小学生だった頃から『ドラえもん』は大人気だった。着の身着のままで空を飛んだり、ドアを開けたら南の島だったり、机の引き出しから孫に会いに行ったり、家で釣りができたり。そこには幸せで便利な未来が提示されていた。

 ドラえもんが版を重ねるうちに、四次元ポケットから出てくる「ひみつ道具」とまではいかないが、たくさんの便利なものができた。ドローンが自在に空を飛んだり、スマホでいろんなことが出来たり、AIの技術が進んだり、お金が電子になったり。人間に好奇心や欲がある限り、この先も技術の進歩は止まらないだろう。

 ではこのまま待っていれば、幸せで便利な未来がやってくるのか、というと、そうでもなさそうだ、というのが多くの人の共通認識だろう。エネルギー問題、貧困問題、人権問題、食糧問題、気候問題。科学技術だけでは解決できそうにない問題を、身近に感じることも多くなった。

 最近、SDGsという言葉をよく聞くが、これは標語やスローガンのようなものではない。訳すと「持続可能な開発目標」ということだが、持続可能な世界を創るための“具体的な目標”のことを指すらしい。

“具体的な目標”は、僕らの「ひみつ道具」のスマホで検索すれば、三十分くらいでざっと目を通せる内容だ。SDGsの中身として、まず達成すべき大きな目標が17個ある。そのための169の具体的な数値目標がある。

 169項目のうち自分に関わりがありそうなものを探してみると、いくつかは自分自身の課題にできそうなことが……あった。確かに、ある。これを達成するには、いつ頃までにどうすればいいかな、などと考えることもできる。深刻に考えるわけはなく、こういうのも結構楽しいな、と思いながら考えられた。

 今、このエッセイを書いたことがきっかけで、自分にとっての「持続可能な開発目標」ができてしまった。みなさんもちょっと調べてみたら、きっといくつかの自分に関わりのある目標が見つかると思う。

 世界を持続可能なものにしなければ、(人間にとっての)未来そのものがなくなってしまう。だから未来を生むための、自分と関わりのある具体的な目標——。

 現在の自分がした判断や行動が何らかの未来を形作り、違う行動をしたら違う未来が生まれる。こうしている今も、さっきの出来事も、確実に未来へと繋がっている。つまり僕らはいつだって、未来とともに生きている。

 未来への目標や夢を持てば、未来とともに生きていることを、もっと実感できる。もしかしたら目標や夢こそが、僕らの「ひみつ道具」なのかもしれない。

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中村航
Profile

中村 航

小説家。2002年『リレキショ』にて第39回文藝賞を受賞しデビュー。
続く『夏休み』、『ぐるぐるまわるすべり台』は芥川賞候補となる。
ベストセラーとなった『100回泣くこと』ほか、『デビクロくんの恋と魔法』、『トリガール!』等、映像化作品多数。
アプリゲームがユーザー数全世界2000万人を突破したメディアミックスプロジェクト『BanG Dream!』のストーリー原案・作詞等幅広く手掛けており、若者への影響力も大きい。

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