TOMONI
GO TO 2100 ともに生きる江戸川区

カンガルーさん

上村 裕香Kamimura Yutaka

 売り場に戻ると、コスメカウンターではスペシャルビューティーアドバイザーの酒井さんがお客様に新作アイシャドウを紹介していた。接客の邪魔にならないようにメイクアップブラシを回収し、洗剤を張ったクリーナースタンドにつっこむ。
 冷たい水に指先が触れて、じんと痺れた。駅直結型商業施設の一階に入っているこのメイクカウンターは、いつも寒い。
 無心でブラシを洗っていると、バックヤードからでてきた店長に声をかけられた。
「バイトさん、スポンジもお願い」
 同時に、店長の後ろからきた美幸が、
「カンガルースタッフさんって呼ばないとダメですよ、全社メールで書かれてたでしょ」
 と店長を注意した。
「怒んないでよ美幸ちゃん」
 店長の猫なで声に顔をしかめて、美幸がわたしを見る。彼女はわたしの美容専門学校時代からの友人で、いま勤めている化粧品メーカーにわたしを誘ってくれた人物でもある。困ったような笑みを向けられる。わたしも、美幸と同じ角度に口角をあげてみせた。
 売り場のスポンジを集めてバックヤードに戻ると、接客を終えた酒井さんと美幸が育児トークで盛り上がっていた。下の子が保育園の先生のおっぱいに突撃して。上の子がアサイースムージー嫌いで。話に入れないわたしに、酒井さんが突然顔を向けて、「うちの子が育ってるのはぜーんぶ、カンガルーさんのおかげよ」とフォローするみたいに言った。美幸も「今日もありがとね。保育園のお迎え十九時までだから、すごい助かってる」と追従する。
「いやいや、えらいのはお母さんたちだから」
 わたしは手を顔の前で振って、視線を下げた。
 社員証が光る美幸の胸元と違って、わたしにはカンガルースタッフ用のバッジが下がっていた。「働くお母さんを応援します」というメッセージが印字されているバッジだ。
 カンガルースタッフとして勤めはじめて、三年が経つ。パワハラで鬱になり、三十歳で会社を辞めて引きこもっていた三年前、美幸から連絡が来たのだ。
「あなたの力が必要なの」
 と美幸は代官山のカフェでわたしの目をまっすぐ見て言った。
 わたしはドラマの日曜劇場で草野球の選手を集める監督みたいな台詞だな、と思いながら、美幸の奢りで頼んだパフェを頰張った。
「うちの会社で、育児で時短勤務をする社員の代わりにシフトに入ってくれるスタッフを募集してるの。いま専門学校のころの友達に何人か声をかけててね、育児期のエクストラビューティートレーナーが育児に専念できるように手伝ってほしくて」
「エクストラビューティートレーナー」
 思わず鸚鵡返しする。美幸は微笑んだまま、補足説明してくれた。
「わたしはまだスペシャルビューティーアドバイザーなんだけどね」
「スペシャルビューティーアドバイザーなんだ……」
「うん。それでね、うちの会社では時短勤務の社員の穴を補ってくれるスタッフさんをカンガルースタッフって呼んでいて」
 と美幸は採用パンフレットをテーブルに広げながら説明した。
 社会全体で子どもを育てる。
 女性が仕事と育児を両立する社会。
 わたしがパフェの下に溜まったクリームが掬えず苦戦しているあいだ、美幸の口からはそんな言葉がポンポンと出てきた。自分も三歳の娘を持つ母親だから、カンガルースタッフの存在に助けられている、と語った。
 なんでパフェの器は底までスプーンが入らない形状になっているんだろう、と考えこむわたしに、美幸は「突然言われても悩むよね」と眉尻を下げた。
 クリームを諦めたわたしは、顔をあげ、
「いや、カンガルースタッフ、やるよ」
 とあっさり答えた。
「引きこもり無職にも飽きてきたところだったし」
 美幸は驚いたあと「あなたなら理解してくれると思ってた」と喜んでくれた。

 仕事から帰ると、彼氏の周平が台所に立っていた。男子中学生が調理実習で着ていそうな、ポケモンのエプロンを着ている。
「すき焼きにこんにゃくって入れる?」と周平が聞く。
「しらたきなら入れるけど」
 わたしが答えると、彼はこんにゃくを細切りにしはじめた。
 周平とは前の会社で知り合って、五年前から付き合っている。わたしがカンガルースタッフになったころ、同棲をはじめた。周平のほうが五つ歳下だ。家ではたいてい、首元のよれたスウェットを着ている。手足が長いからツンツルテンに見えて、それに妙な愛おしさが湧いた。
「明日ゴミ出しだろ? ゴミまとめたし、風呂掃除もしてるから。さきに入っていいよ」
 周平が鍋の火を止めて言う。おざなりに感謝の言葉を返した。風呂に向かう途中、トイレを覗くと、便器もきれいに磨かれていた。
 わかりやすいな、と少し笑った。いつもしない料理や掃除をされると、ご機嫌取りをされているみたいでくすぐったくなる。週に一度くらいのペースで周平は晩御飯をつくってくれる。だいたい鍋物だ。そして、鍋物の日は、ベッドに一緒にはいる。
 前の会社をやめるまでは「いずれは結婚」と互いに思っている気配もあった。けれど、鬱のころ、生理が重くなり行った産婦人科でホルモンの乱れによる不妊リスクを指摘されてから、子どもも結婚も、話にでたことはない。
 わたしは子どもがほしいなんて人生で一度も思ったことがない。でも、三十もすぎると親は孫孫孫とうるさいし、同僚のエクストラビューティートレーナーは子育ての話しかしない。子どもをもっていないことで向けられる、社会からの無言の圧みたいなものは、じんわりとわたしを苦しめていた。
 洗面所で服を脱ぎ、パンツを下ろしたところで、あれ、となにか引っかかるものを感じて手が止まる。
 あれ、今月生理きたっけ。
 ふと浮かんだ引っかかりに、前回の生理日を思い出そうとする。一ヶ月、と二週間前だ。生理不順? 毎月きていたのに? フル回転する思考を遮るように、周平が台所から「すき焼きにキャベツって入れる?」と尋ねる声が聞こえた。

 翌日、遅番で出勤してバックヤードに入ると、入り口で美幸と鉢合わせした。娘の保育園のお迎えに行くのだろう、キルティング生地の大きなバッグを持っている。バックヤードのパソコンの前に座った店長に「あ、ちょうどいいところに来た」と呼び止められる。美幸も戻ってきて、三人でパソコンを覗きこんだ。
「再来月から水曜日もヘルプで入ってくれないかな」
 と、店長がシフト表を表示しながらわたしに聞いた。だれか辞めるのかな、と思っていると、店長が愚痴っぽく言った。
「バイトの坂田さん、わかるかなあ。あの人が妊娠してね、産休取るんだってさ」
「だから、カンガルースタッフ!」
 と美幸が店長の肩を軽く叩く。
「ああ、はいはい。そのカンガルーさんがね、おめでたなんだってさ」
「いやそうな顔しないでくださいよー。おめでたいことじゃないですか!」
 妊娠、という単語に心臓が少し浮き上がる気がした。まだ妊娠検査薬は買えていない。ただの生理不順かもしれない。それでも、妙な緊張が心を覆っていた。
「めでたくないとは言ってないでしょー」と店長が言いながら、坂田さんの名前の横に産休、と打った。わたしはふと気になって、美幸に聞いた。
「カンガルースタッフでも、産休って取れるんだ?」
「産休? 取れるよ」
「育休も?」
「もちろん」
 うなずいた美幸に、店長が隣から口を挟む。
「制度上はね」
「制度上?」
 美幸が店長を非難げな目で見て、
「えーっと、カンガルースタッフさんは時給でしょう? だから、もちろん産休も育休も取れるけど、うちの会社の場合、カンガルーさんは産休中のお給料は出なくて、会社に籍を置いておくって感じになるかな」
 と説明した。わたしはとっさに「そうだよね時給だもんね」と早口で返した。時給。その言葉だけが、ぽんと宙に浮いているみたいだった。
 彼女はカンガルースタッフを決してバイトとは呼ばない。
 店長がシフト表の坂田さんの名前を消して、わたしの名前を入れていく。店長はわたしの採用前研修を担当してくれた人だった。「女性が仕事と育児を両立するために」「未来の子どもたちのために」と研修資料を気のない声で読みあげていた。
 この人はわかっていたんだ、といま気づいた。そのきれいなお題目のなかに、わたしたち「バイトさん」は含まれていないってこと。
 シフト表を確認して、逃げるようにバックヤードの外にあるトイレに向かう。バックヤードを出る直前、
「あ、そうだ、社割は使えるよ! 新色リップ二割引」
 と美幸が追いかけてきて言った。

 妊娠検査薬の青い線は思っていたよりも薄くて、でもはっきりと、線が浮いていると認識できた。
 わたしは寒々としたトイレの冷たい便座にお尻をくっつけたまま、しばらく固まっていた。結婚するなら仕事はどうなる? 周平は喜んでくれるだろうか? 両親にはどう報告しよう? 周囲の人の反応を考えると、では自分は? と問いが戻ってくる。
 子どもを育てる。親になる。……わたしが? 喜ぶべきなのだろう、と思っても感情が湧いてこなかった。どう思ったらいいのか、わからない。三十も越えて情けない話だけれど、わたしにはまったく、母親になる覚悟みたいなものが育っていなかった。
 肌寒い夜更けが近づいたころ、周平が帰ってきた。周平に切りだしたのは寝室でのことだった。まだ自分の中でも現実感がなくて、「できた、みたい」と言葉にしてはじめて、周平が受け入れてくれなかったらどうしよう、という不安が襲ってきた。
 ベッドの端っこに腰掛けた周平は、口をぽかんと開けてからわたしを見た。
「できた?」
「うん。……赤ちゃん」
「あ、赤ちゃんっ?」
 わたしは「うん」と返事をしたきり、どう思うとも、どうするとも、問いかけられなかった。周平は瞳を揺らめかせて、わたしにがばっと抱きついた。
「結婚しよ」
「えっ?」
「結婚しよ結婚しよ結婚しよ! うわ、めちゃくちゃうれしい、うれしい」
 彼は興奮した様子でベッドの下に手を伸ばした。これっ、と渡される。『はじめてのパパ』『育児考現学』『ジェンダークリエイティブな育児』……。
 どれも育児書だった。
「よ、喜ばしいってこと?」
「もちろんだよ! 好きな人との子どもなんだからほしいに決まってんじゃん! ぼくとぼくの好きな人の遺伝子を継承した個体が地球上に発生するんだよっ? うれしいよ、ほんとにありがとう、結婚しよ!」
 オタクが推しキャラと結婚したいって言うときみたいな興奮の仕方だなあ……とわたしはちょっと引き気味に彼を眺めた。
「きみがカンガルースタッフをしたことも、もしかしたら体によかったのかもねっ? 鬱で生理とかも、その、大変だったじゃんか。子どもができにくいって精神的にもきついかもだし。だからっ、ぼくは、カンガルースタッフって仕事に感謝してるっていうか」
「いやっ、それはポジティブすぎるよ……」
 周平の持つ育児書の端っこは折れてぼろぼろになっていた。わたしはそれを見て聞いた。
「……周平って、子どもほしかったの?」
 周平は彼に似合わない深刻な顔で黙りこんでから、気まずそうに「まあね」と答えた。
 そういえば、と思い出す。カンガルースタッフをすると話したとき、美幸の次に喜んでくれたのは周平だった。社会で子どもを育てるって言葉にも、熱く感銘を受けていた。子どもが好きな人だった。
「子どもほしかったのかあ」とわたしはもう一度、繰り返した。それを、いままで、この人は言わないでいてくれたんだなあ、と思うと、鼻の頭がつんと痛くなった。
「実はね、ほしかった」
 と、周平はさらに育児書を数冊、ベッドの下から取り出した。わたしは今度は「なんでそんなところに隠してるの」と笑いに肩を震わせることができた。
「ごめんね」
 周平が小さく謝る。わたしが子どもをほしいと思っていなかったからか、周平がほしかったことを黙っていたからか。わたしには彼が謝った理由が完全にはわからなかった。
 でも、少しわかった。
 彼の言葉を聞いてはじめて、わたしは「社会全体で子どもを育てる」という綺麗事みたいな言葉に、もしかしたらずいぶん救われていたんじゃないか、と気づいた。鬱で退職。引きこもり。不妊リスク。周囲の育児トーク。カンガルースタッフは、そういう社会に対する後ろめたさや圧から、守ってくれる繭みたいなものだったのかもしれない。
 自分のお腹に手をあてる。まだお腹には少しの膨らみもない。周平がわたしの手に手を重ねた。わたしはその手にさらに手を重ねて、強くにぎった。

Profile

上村 裕香

2000年佐賀県佐賀市生まれ。京都芸術大学芸術学部在学中。
2022年「救われてんじゃねえよ」で第21回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞、「何食べたい?」で第19回民主文学新人賞を受賞。

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