TOMONI
GO TO 2100 ともに生きる江戸川区

海へ

深沢 潮Fukazawa Ushio

 凪の水面は傾きかけた陽の光にきらめいている。鼻孔から深く息を吸って、枯草の匂いと生臭さをまとう湿っぽい空気を肺に送り込む。それからゆっくりと、ため込んだ負の感情を胸の奥から吐き出した。あたりにはひとどころか小さな虫の気配すらない。私の呼吸だけが、なにかしら生きているものがいることを証していた。
 日が陰り、風も冷たくなってきた。黄ばんだよれよれの白いコートの前を合わせるが、寒さはからだの芯まで侵してくる。そろそろここから離れないと国境警備の軍人が巡回に来てしまうのに、あの廃材でつくった、陰鬱ですさんだ家に帰りたくないと、ため息が出る。どうせひとりなら、この川べりにいる方がましだ。母親と二人の姉は、戦争で亡くなった。まだ娘も生まれていない。学校では、誰も私と口をきかない。先生も私がまるでそこにいないかのようにふるまう。家族が戦場で死体処理の仕事に就いていたことがみんなから忌避される原因だとはわかっている。
 土手から見下ろすと、岸辺には私の背丈の三倍はあるだろう金網のフェンスがはりめぐらされ、そこには電流が流れている。川はゆったりと流れ、対岸は遠く、濁った水の流れる音はここまで届かない。一〇〇年前には、橋がかかり、ひとびとは行きかっていたらしい。隣のくにと私の暮らすくにが同じくにだったという伝説も語り継がれてきた。だが、ふたつのくには、なんどもなんども戦争をして、いまも、この川をはさんでにらみ合っている。最初は、言葉の投げ合いだったものが、戦争にいたるまで、それほど時間はかからなかったようだ。常にこちらに有利だとされていたが、実は互いに決め手のない戦闘がこの一〇〇年間で数十回は起き、戦争は形骸化している。とはいえいまは休戦中で最後の戦闘は一〇年前だ。最近は実のところ国境の警備も穴だらけだ。監視カメラは故障してもなかなか直されず、軍人は形だけの巡回を一日に三回から五回行う。派遣された上官しだいで頻度は変わる。
 目を凝らして、対岸の景色を見やると、ぼんやりと黒い建物の影らしきものがみとめられるだけで、隣のくにのひとびとの生活は、その断片すら見えない。隣のくにはどんなところでどんなひとが住んでいるのだろうか、自分と同じようにひとりで生きているものがいるのだろうか。学校では、隣のくにやそこのひとびとのことをあしざまに教え、このくにのことばかりをほめたたえる。けれども、自分でたしかめてみないとわからないと思っている。隣のくにのひとと話してみたいとも思う。果たして言葉は通じるのだろうか。もちろん、隣のくにのひとと話すなんてありえないし、禁じられている。だが、想像してみることは自由だ。だから、私はこの土手でいつも心の旅をする。川をこえ、その先の、海、なるところに出てみようとすらする。海は途方もなく広いらしいが、うまく思い描くことができない。
 そもそも、隣だけでなく、周囲のくにのことをむやみに知ろうとすると罰せられる。与えられた情報を受けとることしか許されていない。戦争になる前は、ひとびとは電子機器で情報を検索してみずからなんでも知ることができたらしいとまことしやかに伝わっているが、システムや情報は政府や一部のひとたちに独占された。
 頭を振って、立ち上がった。すると、薄闇の中、こちらに向かって、黒い塊が川面を動いてくるのが見えた。三年前、七十数年ぶりに現れたアザラシというずんぐりむっくりした動物がこの汚染された川を泳いでいて大騒ぎになった。あのアザラシがまた戻ってきたのだろうかと、土手を降りて、フェンスの近くまで行ってみる。アザラシは、写真で見た限り、すごく愛らしかった記憶があるから、傍で見てみたい。
 驚きのあまり、あっ、と声が出た。黒い塊は、明らかにひとの頭だった。ばしゃばしゃと水しぶきをあげて、こちらに泳いでくる。その様子を呆然と眺めていると、まもなくしてそのひとは、こちらの岸にたどりついた。砂利を踏みしめて、荒い息を整えている。このくにでは見たことのない短髪で、背丈も私よりある。ずぶ濡れの衣服は、私がコートの下に着ている制服に似ていて、白いシャツに黒いズボンだ。ところどころ擦り切れているのも、私と同様である。靴はどこかで脱げたのか、裸足だった。その足は、私のよりもかなり大きい。
「ブッシュンッ」
 豪快なくしゃみをしたそのひとは、顔をあげ、私と金網ごしに目があった。なにかを語りかけたそうな、親しみすら感じられるまなざしだ。私はその瞳にひきつけられてしばらく見つめ合っていたが、はっと我にかえった。
 まずい。かかわってはいけない。
 踵を返して走り出した。すると、背後から、オーイ、と大声が聞こえてくる。なんということだ。国境警備の軍人に聞こえたら、たいへんだ。その場に立ち止まって振り返り、しーっと人差し指を唇にあてて睨んだが、そのひとは、もう一度、オーイと叫んだ。変わった太い声で、よく響く。おまけに手までふっている。私は仕方なく、きょろきょろとあたりを見回しながら金網に近寄っていく。
「もうっ、大声を出さないでっ」
「わかった、わかった」
 やっぱり調子が狂う声だと思っていると、遠目ながら上流の方の土手に、人影が見えた。赤い制服だから、おそらく国境警備の軍人だ。
「見つかったら大変。こっちに来て」
 下流の方を指さして、ほら、はやくっ、と誘うように走り出す。そのひとは裸足のまま、私についてくる。フェンスをはさみ、並んで走る恰好になった。しばらくして草木が絡みついている一角の前に着き、足を止める。はあはあとあがった息をおさめながら、もう大丈夫、と言った。
「ここは死角で、しかも電流が通っていないし、警備の軍人もまったく気づいていない。いつもこの金網を乗り越えて、川で魚を獲っているから、間違いない」
「えっ、この川の魚を食べているの? 大丈夫なの?」
 私は目を瞬き、「貧乏だからね」と答えた。するとそのひとは言葉に詰まった。私は小声で「あなたこそ、あの汚い川を泳いできたでしょ」と顔をしかめた。そのとき、そのひとの左手の甲に視線が釘付けになる。
「それは、もしかして?」訊くとそのひとは、ああ、と自分の手をさすった。
「十五になったら必ず、手にこの落花生の入れ墨をする。そして細胞を採って保存する」
「隣のくにのひとに落花生の入れ墨があるのは、学校で習った。やっぱりあなた……」
「友達に川に投げ込まれて、流されちゃったんだ。あ、いや、友達じゃないな、あんな奴ら」
「なんて危険な……ひどい」
 嘆くように深いため息を吐いた。いじめられて腐臭のする池に投げられたときのことが蘇る。隣のくにでも、嫌な奴のやることは似たり寄ったりだ。
「なんとかあっちに帰れると思う。手伝うよ」
 そう言うと私はフェンスに足をかけ、軽々とてっぺんによじ上る。視線の先には、川の景色があった。ほんのつかのま、そのままでいたが、吹っ切るように、フェンスを越えて下りた。地面に着地すると、周囲を窺いながら、こっちへ、と言って歩き始める。隣のくにのひとは、裸足のため歩調がのろいが、距離をあけないようについてくる。ときどき隣のくにのひとが大きなくしゃみをするので、国境警備の軍人はこのあたりまで来たことがないというのに、見つからないかというおそれで心臓が飛び出そうなほど私の鼓動が大きくなった。
「ねえ」と声をかけられ、振り向いて立ち止まる。
「ごめんね。迷惑をかけて。ひとりでなんとかして戻るから、もういいよ」
 私は頭を左右につよく振った。
「船で渡った方がいいって。すぐそこに、釣りに使う船を隠してある。いままで見つかったことがないから心配ないよ。この汚染された川をひとも船も渡るわけがないと思われているから」
 私は、隣のくにのひとの腕をとって、引っ張った。触れた腕は骨っぽくて、なんだか妙な感じだ。

 家族を亡くした五歳からずっとひとりで暮らしてきた。物乞いをしたり、ごみを集めて小銭を稼いだり、物売りをして生きてきた。義務教育の学校はさぼると罰せられたので通い続けているが、友達と呼べるような親しいひとはいない。したがって、会って間もなかろうが、接触を禁じられている隣のくにのひとであろうが、私は、自分の船に自分以外のひとと乗っていることに、かすかに胸が高鳴っていた。向こう岸に近いところまで送り届けたら戻ってくるつもりだ。私が貸したコートを羽織った隣のくにのひとは、青ざめた唇で「ごめん、漕いでもらっちゃって」と言った。このひとの発音は、ちょっと私のそれとは異なっているし、声も低いが、言っている意味は明確に理解できる。隣のくにの言語は、限りなくこのくにで話されるものと近い。やはり、一〇〇年前に同じくにだったのは、伝説ではなく事実なのだろう。
「ところで、あなた、歳はいくつなの?」
 隣のくにのひとが訊いてきた。
「十五」
「同じ歳だね。声が高いし、体も小さいからもっと年下かと思った。家族は?」
「いない、ひとり。母親ときょうだいは戦争で死んだ」
「ひとりなのも、一緒だ」
「そうなんだ。同じ……なんだね」
 同じ、という単語が、やけに胸に響いた。
「だけど、母親? なにそれ。父親じゃなくて?」
「えっ、父親? そんなの知らない」
 私はオールを漕ぐ手を止めて、コートの内ポケットから古い写真を取り出して見せた。
「これが母親。お母さんって呼んでた」
「あなたとそっくりだね。こっちは、母親なんてのはいなかったけど、父親……お父さんはいて、やっぱりそっくりだった。死んじゃったけど」
「なんか、あなたと私、同じだけど、ぜんぜん違うね。いや、違うけど、同じ、かな?」
「本当だ」隣のくにのひとは、笑みを浮かべた。
「お母さんも、君みたいに髪が長いね。このくにの人は、みんな長いの?」
「そう、十五になったら、髪を編まなければいけない。そしてこのくにでも細胞を採る」
 私の言葉に、隣のくにのひとは、うーん、と思案顔になって、黙り込んだ。私は面前のひとをじっくりと観察した。すると、最初に会ったときから気になっている体の違いが目に付いた。喉から出ている骨らしき突起物、幅広い肩、私のように隆起していない薄い胸、大きな足。ごつごつした手。それに、顎や頰に毛がまばらに生えている。
 隣のくにのひとは不意に、「そうか、やっとわかった」とつぶやいた。
「なにがわかったの?」
「父親は刑務所で病死したんだけど、捕まったのは昔のことを記した本を隠し持っていたからなんだ。三人のきょうだいもその本を読んだかどで刑務所にいる。もう出てこられないだろうな。その本にはよほど、くにの偉い人達が隠したいことが書いてあったらしい。どんなことが書かれていたんだろうって思っていたけれど、このくにに来てあなたに会って、つながった。お父さんが、ひとには男と女っていう種類があって、それ以外にもいろんなタイプのひとがいて、自分たち家族が男だっていうことは、こっそり教えてくれていた。こどもも、細胞からつくるのではなく、男と女がいてこどもができると言っていた。意味がよくわからなかったけれど、とにかく、女、と分けられるひとがあなたなんだってことはいま理解した。そして、あなたのくにには女しかいなくて、こっちのくにには男しかいないんだよ。もともとはひとつのくにで、そこでかつて男と女は共存していたってことなんだな。だけど、その男と女が二つのくににわかれて一〇〇年も戦っている。きっとそういうことだ、うん」
「あなたの話、難しくて混乱する。つまり、私は、女……なの?」聞いたこともない分け方に、違和感しかない。
「一応そうかもしれないけれど、いままでと変わらずあなたはあなたでしかないよ」
「そうだよね」答えてほっとする。
「ねえ、あなたの名前は?」隣のくにのひとが尋ねてきた。
「リオ。あなたは?」
「カイ」
 互いに、リオ、カイ、と呼び合うと、距離がぐっと縮まったような気がして、もうすぐ別れるのが惜しくなってくる。聞いた話ももっと詳しく知りたいと思いながら黙って対岸に向かっていると、カイが、「ねえ、リオ」と話しかけてきた。
「もう、戦争も、窮屈なくにも、うんざりだよ。だから、海の向こうの違うくにに行こうって思っている。そこには、きっと、いがみあっている二つのくにとは違った、いろんな世界があるはずなんだ」
「そんな世界があるなんて」
「リオも一緒に行こう。この船で海に出るんだ」
 カイは澄んだ目をこちらに向け、さらに言った。
「たとえつらくても、失敗したとしても、元の世界に戻るよりは」
 私は、うんうんと頷いた。
 そう、このままここにいるのはまっぴらごめんだ。新しい世界に行くのだ。
 私は力をこめてオールを握りなおし、河口に向かって船を漕ぎ始めた。
 日がすっかり暮れて、おぼろな月が船のあとを追い、私たちふたりをやさしく見守ってくれていた。

Profile

深沢 潮

1966(昭和41)年、東京生まれ。
2012(平成24)年「金江のおばさん」で「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。受賞作を含む連作短編集『縁を結うひと』(『ハンサラン 愛する人びと』改題)を始め『ひとかどの父へ』『緑と赤』『海を抱いて月に眠る』のような在日の家族が抱える“答えの出ない問い”に向き合う作品や、現代女性の価値観に切り込む『伴侶の偏差値』『ランチに行きましょう』『かけらのかたち』などがある。他の著書に『乳房のくにで』『翡翠色の海へうたう』など。

TOMONIでは区民の皆さまの
ご意見、ご提案を募集しております

江戸川区は、「ともに生きるまち」を目指し、今後さまざまな取り組みを行ってまいります。

このウェブサイトでは、区民の皆さまはじめ江戸川区に関心をお寄せいただいている皆さまから広くご意見、ご提案を募集しております。
いただきましたご意見、ご提案については、今後の議題や活動の参考とさせていただきます。
※ご意見、ご提案等については、個別回答はできかねますのでご了承ください。