「店長、終わりました」
夜七時、レジ締めを終えた奏人が告げた時、なぜかアルバイトを始めて間もない頃に「ワイシャツとブラウスを間違えてお金をもらってしまいました」と報告されたことを思い出した。奏人は不安でいっぱいの顔をしていたが、繁光はあの時、雇ってよかったと思った。失敗を打ち明けるのは勇気がいるものだ。だが奏人は正直に申し出た。信用できると思った。
ご苦労さんも言わない繁光に奏人も慣れているから、「草壁クリーニング」とプリントされた水色のエプロンを外して帰り支度を始める。きれいに畳んだエプロンはカウンターの下にあるかごに入れ、濃紺のブレザーを着る。この商店街からほど近い、水門そばの高校の制服だ。
身支度を整えてカウンターの奥から出てきた奏人は、黄色いタイヤを左右に付けた車いすをゆっくりと動かし、観葉植物に霧吹きで水をやっていた繁光の前まで来ると、まっすぐな瞳で見上げてきた。
「二年間、お世話になりました。俺を雇ってくれて、本当にありがとうございました。ここで働くことができて、俺もちゃんと大人になっていけるって思えました」
アルバイトを始めたばかりの奏人は、敬語がぎこちなくて、つっかえることも多かった。それが今では落ち着いた声で丁寧に言葉を紡ぐ。
「大学でもがんばります。店長も、体を大事にして、これからもお元気でいてください」
奏人の笑顔は、親愛と、信頼と、ほのかなさびしさと、きらめくいくつもの感情にリボンをかけた花束のようだった。
一礼した奏人が両手をハンドリムに戻すと同時に、繁光は芝生色の玄関マットに立ちはだかって行く手をはばんだ。背後で自動ドアが開き、少しして、また閉まった。
奏人はきょとんとしている。内心の緊張と表情筋が直結しない繁光は、水色エプロンの内側にずっと隠し持っていたものを、ひとつ深呼吸して取り出した。
妻が他界して一カ月後、店にアルバイト募集の貼り紙をした。
草壁クリーニングは祖父の代からの店で、工場ではクリーニング師資格を持つ繁光を含めた三人が働いている。併設した店舗では妻が受付とその他一切を引き受けてきた。とびきり笑顔の明るい妻を、悪く言う客はいなかった。
だが妻はいなくなった。客が持ち込んだ服の汚れ箇所を一緒にきちんと確認し、服の種類を正確に判断して正しい料金をもらい、タグをつけ、工場で働く繁光たちに届け、その間にも店に来た客に仕上がった服を間違いなく渡し、電話対応も、時折どうしても起こるクレームの対応もこなす代わりの人間が必要だ。
幸い、妻と仲の良かった姪が受付をやってくれることになった。だが平日に働けるのは開店の朝八時半から午後四時まで、それ以降は小学校から帰ってきた子供たちの世話がある。これには弱った。店が一番忙しいのは土日だが、平日の夕方の時間帯も、仕事帰りに服を預けにきたり、受け取りにきたりする客がそれなりにいるのだ。それに「土日のどっちかは休ませてよ」と言われてしまった。
もうひとり、店番の人間が要る。妻のようにとまでは言わないから、仕事が正確で、できれば笑顔のいい誰かが。
貼り紙をしても一週間以上、反応はなかった。姪には「バイト代安すぎだもん」と言われた。確かに時給は最低賃金に毛が生えた程度だ。昔からの常連が支えてくれてはいるが、コロナ禍でリモートワークが広がったことでよそ行きの服をクリーニングする客は減り続けており、申し訳ないがそれ以上は出せない。「あとおじさんが何となく怖い」とも言われたが、話すのも笑うのも苦手なまま六十年も生きてきたから今更どうにもできない。
どうしたものかと悩んでいた三月二十七日、はっきりと覚えている、土曜日の午後三時きっかりだ。工場に姪が内線電話をかけてきた。「バイトしたいって子が来てる、履歴書も持ってきてる」と。
あわてて向かったそこに、奏人がいた。
襟まできちんとアイロンをかけたシャツを着た奏人は、受け答えもしっかりしていたし、面接に同席した姪の冗談に見せた笑顔は明るく、「ありがとうございました」と一礼した姿も礼儀正しかった。しかし。しかしだ。
クリーニング店の受付といったら、女がやるものだ。持ち込まれる衣類にはデリケートな汚れ物もあったりするから女性客は同性が応対したほうが安心するし、何より受付は女がやる仕事、昔からそう決まっているはずだ。
それにアルバイトといったら、何というか、普通の人間を募集しているとわかるはずだ。普通の――自分の足で歩ける人間を。
「でもおじさん、貼り紙には『女性限定』とも『健常者限定』とも書いてなかったわけでしょ? どっちも書いたら完全にアウトだけど。だったらあの子の側には何も問題ないし、むしろ感じのいい子だったと私は思うよ」
姪は奏人が気に入ったらしくそんな風に肩を持った。繁光だって好感は持っていた。しかし。あの子は、しかし。
迷いに迷って、夕方にはかけると面接で伝えた電話は、かなり遅れて夜七時の閉店後になってしまった。履歴書にあった携帯電話番号に店の固定電話からかけると、コール音はすぐに途切れて「はい!」と少年の声がした。ずっとスマートフォンを握りしめて待っていたんじゃないかと思わせる速さだった。
繁光は連絡が遅れたことを詫び、ぼそぼそと用件を伝えた。明日の朝八時半から来られるか、と訊ねると、奏人は「はい」と少しかすれた声で答えた。
「行きます、絶対に遅刻しません。がんばります。ありがとうございます」
通話を切ったあと、繁光は今さっき聞いた、「ありがとうございます」を思い返した。
あんな万感のこもった感謝を、自分は世話になりっぱなしだった妻にすら、きっと伝えたことはない。
しばらく様子を見て、やはり無理だと思ったら辞めてもらおうと考えていたのだ。差別と言われたくはないが、繁光にだって店を守る責任がある。
しかし奏人は予想以上にひたむきだった。研修のために開店前から店に来て、姪から受付の仕事を習い、真剣な顔でメモを取る。家に帰ってからも復習しているようで、一度教えたことはほぼ聞き返すことがない。
ただ、問題がないわけではなかった。受付カウンターの奥には洗い済みの服がずらりと吊るされているが、これまでのハンガーラックの高さだと、車いすに座った奏人には手が届かない。これはシンプルに、ラックの高さを調節することで解決した。ただ預かりものの衣類の中には丈の長いコートやパンツ、スカートなども多く、それは低くしたラックだと裾が床についてしまう。仕方がないのでそれらは従来の高さのラックに残し、奏人が担当の時間帯に受け取りの客が来たら工場に連絡を入れさせ、手の空いている者が補助に向かうことにした。そう決めた時、奏人は小さな声で、すみません、と言った。
翌日、開店前に出勤してきた奏人は、笑顔で繁光と姪に奇妙な白い棒を見せた。
「家でばあちゃんが高いところの窓を閉めるのに使ってたのを借りてきたんです。これがあればコートとかスカートも俺ひとりで取れると思います!」
マジックハンド、というらしい。棒の先端に着いたY字型のフックで物をつかむことができるし、棒の長さも調節できる。
客によっては不快に感じる人もいるかもしれないから、使う前にひと言断ること。つかむのはハンガーだけ、服には棒をふれさせないこと。絶対に服の裾を床につけないように気をつけること、などを姪と話し合う奏人を繁光は見つめた。昨日、誰かの手を借りなければ自分ができないことを突きつけられた奏人は、仕方がないとそこで考えることをやめず、打開策を探したのだ。
根性がある。苦手なことはほとんど妻にまかせてきてしまった自分より、よっぽど。
研修を終えた奏人は、定休日の木曜日をのぞいた平日の午後四時から閉店七時までの三時間をひとりで受け持つようになった。土日は姪とシフトを調整して休みを取り、繁忙期は二人で連携して大量の洗濯物をさばく。例のワイシャツとブラウスを取り違えて料金を受け取った失敗と、ほかのミスもいくつかあったが、同じ間違いは二度としなかった。客からも不満の声はなく、繁光は考えを改めた。クリーニング店の受付は女でなくともいい。そして、車いすを使っていてもいい。
三月下旬から五月連休明けまでの繁忙期を乗り切ると、客足はいっきに落ち着く。衣替えも終わり、誰もが薄着になって、クリーニングに出すような服を着る機会が減るからだ。ある日の夕方、暇を持て余した繁光は、今日はもう帰っていいと奏人に伝えるために店に顔を出した。
奏人は、カウンターの奥、薄いポリ袋で保護された衣類が並ぶハンガーラックの前にいた。洗い済みの服の確認をしているのかと思ったが、よく見ると視線はもっと高いところを向いている。
繁光に気づいた奏人は笑顔になり、ハンガーラックの奥の壁に掛けられた、金ぴかの額縁を指さした。
「クリーニング師って国家資格なんですね。俺、バイト始めるまでは、クリーニング屋の人がきちんと資格を持って働いてるってことも全然知らなくて」
クリーニング師免許証は、コンクールでもらう賞状によく似ている。額縁は、新婚の頃、妻が繁光の合格を喜んで三軒先の「やました文具」で一番いいものを買ってきてくれた。
「かっこいい」
奏人は額縁を見上げながら嚙みしめるように呟いた。それで、ぴんときた。不思議だったのだ。なぜ奏人が、こんな時給も安い店でアルバイトをしようと思ったのか。
クリーニング屋になりたくて応募してきたのか。そう訊ねると、奏人は目を泳がせた。
「いえ……高校に入ると友達がみんなバイト始めて、俺もうらやましくなったんです。けど俺がバイトするってすごく難しいんだってすぐにわかりました。高校生可の求人にいくつも応募したけど全滅で、面接も受けられないところも結構あって」
初耳の話だ。けれど奏人がなぜ面接も受けさせてもらえないまま不採用になったのかは、聞かなくてもわかった。
「心折れそうになったけど、俺は大人になっても何の仕事にも就けないかもしれないって思うとそっちのほうが怖くて、バイト探しは続けました。修了式の次の日、母が買い物のついでに制服をクリーニングに出すって言うからついてったら、車の窓からアルバイト募集の貼り紙が見えたんです。入口は自動ドアだし、段差もないし、カウンターと壁の間も車いすでぎりぎり通れそうだし、ここは俺が働ける場所だって思った。それで家に帰ってすぐ履歴書を書いて、ここに来たんです」
繁光は黙っていた。昔からいつも、何か言いたい時ほど言葉が出ない。
「バイト始めて、働けるってうれしいと思った。自分が誰かの役に立って、それでお金がもらえるって、すげえうれしい。大人になったら、店長みたいにどこでも通用する、車いすでも関係ない資格とか免許を取って、ちゃんと働いてしっかり生きていきたい。俺に何ができるのか、まだ全然、わかんないけど」
消えそうな声で呟いた奏人は、その後快進撃を開始する。SNSを使って顧客に受け取りの来店時間を事前連絡してもらい、待ち時間ゼロで品を渡すシステムを整えたり、「店長のしみ抜き技術はもっと広く知られるべきだと思います」と主張して『どんなしみも抜いてみせます!』セールを開催、予想を超える大反響を呼んだり。客にも可愛がられ、奏人が休みの日に繁光が受付にいると「今日はあの子じゃないの」と残念そうにされることもあった。
受験勉強が忙しくなってもシフトを減らしながら働き続け、今、最後の勤務を終えた奏人に、繁光はエプロンの下から出したものを両手でさし出す。奏人が目をみはった。
「伊藤奏人。草壁クリーニング従業員の免許証を与える。よってこの証を交付する」
賞状用紙はやました文具で買い、墨書きの文章は繁光が書いた。実は毛筆書写技能検定準一級を持っていて、江戸川区文化祭の書道展にも毎年出品している。
妻が死に、代わりの人間がなかなか見つからなかった時、もう店を辞めようかと思った。もう何の意味もない気がした。だが奏人がここに来た。懸命に自分にできることをする姿に勇気づけられ、いつしか自分も働く喜びを思い出した。
それは言葉で伝えられそうにないから、ただ、手書きの免許証を渡す。
両手で受け取った奏人は、濡れた目のまま唇を開いた。言葉は出てこない。繁光は頷き、笑った。何か言いたい時ほど何も言えないのはよく知っている。
目元をぬぐった奏人も、顔を上げて笑った。
誇らしそうに、そしてとびきり晴れやかに。
岩手県出身。『屋上ボーイズ』(応募時タイトルは「いつまでも」)で第17回ロマン大賞を受賞しデビュー。
『パラ・スター〈Side 百花〉』『パラ・スター〈Side 宝良〉』は《本の雑誌》が選ぶ2020年度文庫ベスト10第1位に選ばれた。ほかの著書に『鎌倉香房メモリーズ』(全5巻)や『どこよりも遠い場所にいる君へ』『室町繚乱』などがある。
江戸川区は、「ともに生きるまち」を目指し、今後さまざまな取り組みを行ってまいります。
このウェブサイトでは、区民の皆さまはじめ江戸川区に関心をお寄せいただいている皆さまから広くご意見、ご提案を募集しております。
いただきましたご意見、ご提案については、今後の議題や活動の参考とさせていただきます。
※ご意見、ご提案等については、個別回答はできかねますのでご了承ください。