TOMONI
GO TO 2100 ともに生きる江戸川区

未来へのヒント

HINT

自分の個性に自信をもつこと

ヨシダナギ

ヨシダさんがアフリカの人々を撮り続けている理由は。

 先ほど(前編で)も少しお話ししましたが、幼い頃にテレビで観てこんなに「かっこいい」人たちが世界に入るのかと“ビビッ”と来たからです。小さい男の子がバスとか電車になりたいって言うのと同じ感じで、大きくなったらあれになる!という、初期衝動というか一目惚れです。もともと自分と違う人ほど面白いと思っているので、まわりに全くいない人にはより興味が湧きます。

 もう「本当かっこいい」という気持ちです。私の考える「かっこいい」があまり他人に理解されずに、結構悔しかったのですが、実物はまぎれもなくかっこよかったので、すごく嬉しかったです。
 日本人にはないフォルムだったり、美しい肌の色だったりもそうですし、最初は少数民族がいいと思っていたのですが、現地では街にいる普通のアフリカ人をはじめ、全員かっこいいっていう世界でした。

 アマゾンにいる民族の見た目はどちらかというと、アフリカ人より私たち日本人に近しいのですが、こんなに顔や姿が似ているのに、文化がまるで違うんだという驚きと同時に、地球の真裏にいるのに、考え方だったり振舞いが少し似ていたりして、すごくシンパシーを感じました。おそらく、交わったこともなかっただろう人類同士なのに、そういう似ているところと違うところと両方あることが面白いと感じています。

 地球の真裏なのに似ているところがあり、日本人の奥ゆかしい部分や、対人関係に対してのマナーやしきたり、日本の落ち武者みたいなヘアスタイルが、彼らの儀式やそういった文化的な部分も似ていたりして、不思議なんです。

ヨシダナギ
ヨシダナギ

文化やルールが違う社会に最初に入って行く時に、ヨシダさんなりのやり方はありますか。

争いがない世界にするために必要なこと

 まず、すべてが違って当然という前提であることは必要だと思います。でも、実際自分がどのようにやっているのか、よくわかってないですね。

 ずっと空気は読んでいるんだと思うんです。日本では本当に空気読めないのですけど、なぜか現地では読める。自然にわかる。これはやっちゃいけないとか、こうしなきゃいけないというのが、アフリカやアマゾンに行くと不思議とわかるんです。
 それは英語や現地の言葉が話せないからかもしれないです。言語で意思疎通できる人は確認をしながら溶け込んでいくのだと思いますが、私の場合はニコニコして、とりあえず付いて行き、空気を読んで同じ格好をしてみてと、その場に応じてどんどんやってみている感じですね。

 私は言葉がない方がいいですね。へたに言葉が通じる人だと、口がうまければ良いですが、私はうまくできないので、対人間同士でぶつかり合う方が楽ですね。
 ここでもお母さんに言われた、ニコニコしておくことが役に立ちます。アフリカの奥地だと特に珍しがられます。部外者が来ること自体ではなく、愛想良く過ごす方の人種である日本人は、外国人から見てとても珍しいようです。というのも、アフリカの人たちに言わせると、自分たちより肌の白い人種は、自分たちを見てあまりニコニコしないイメージだそうで、肌の白い人間が笑顔で近づいてくるのがすごく興味深いそうです。笑顔がきっかけで本当にかわいがってもらえたので、お母さんの言葉が役に立ったと思っています。

 相手を知らないことが人間にとって一番怖いのだと思います。だから知るということは大事なことだと思います。そして、価値観を知ることも必要な気がします。
 ある少数民族の人たちに「幸せの価値観」を教えてもらった時に気づいたのですが、私たちは向こう何年、今ぐらいの安定した生活ができるようにお金を稼げると幸せとか、もう少し別の角度だとブランド品や希少なものを手に入れられたら幸せと考えることが多いと思います。しかし、少数民族から「今日お腹いっぱい食べることができて、家族みんなで穏やかに眠れたら、幸せ」だと聞いた時にハッとしました。彼らは今日が幸せだったら笑顔でいられるし、みんながニコニコしていればその先も幸せが続くと本気で思っている。「まだ見ぬ先を不安になって暗い顔をしていたら人なんて寄ってこないし、そんな人生の何が幸せなんだ」と言われた時に、幸せとはとてもシンプルなものだと気づきました。同じことをお母さんに言われても、たぶん心に刺さらなかったと思いますが、現地で彼らから聞くことで腑に落ちました。
 日本社会はベースが幸せなのです。でも情報量が多いから、もっと良い暮らしを求めたり、比較するとあちらの方が良いなと思ってしまう。アフリカに行くとそんな自分に気づけるところもすごく好きです。

 私は思慮が浅いだけで勇気とかではないのですが、でも、好奇心で世界に飛び出せたので、好奇心は持ったらいろんなことのエンジンにはなると思います。私の場合アフリカの人への憧れであったり、人への興味がそうでした。
 あと、私は単細胞なんだと思います。不安とかは漠然とはあるのですが、どう不安なのかとか、どうして危ないって言われるのか、あまりよくわからないまま行動しています。悩んでいるくらいだったら行ってみよう、やらないで後悔するのは嫌だと小さい時から決めているので、あまり悩みません。

海外に行けない時間が長くなりました。早く行きたいという気持ちは出てきました?

彼らを通じて気づいた世界の課題

 3年間海外に行けませんでしたが、当初はまったく思いませんでした。むしろストレスから解放されたと思ったぐらいです。散々アフリカ大好きとお話ししておいてなんですが、撮影で行くとものすごいストレスフルで過酷な環境なのです。コーディネーターが約束の日時から3日遅れてくるとか、当てにならないけれど、その人しか頼りにできるツテがないという状況は精神的にきついです。それ以上に現地ではすぐお腹をこわすこともしんどいです。でも、それも含めて面白いのです。
 日本から出られなくなって2年が過ぎる頃から、やっと国外に出たいなという感情が湧いてきました。それまでは、働かなくて良い、家の外に出なくて良いことがラッキーだと思っていたのです。それが、「あれ?私が現地で過ごしていた時間とか、人との時間、経験はすごく尊いものだったのではないか」と遅ればせながら気づいて、やっぱり行きたい、戻りたいって思うようになりました。「キャンプ生活なんてもういい」とか、「いつでも彼らの歌なんて聞ける」とか思っていましたが、そのこと自体がすごく貴重だったと考え直し、次行ったら本当に1日1日をちゃんと大事にしようと思っています。

ヨシダナギ

 彼らを通じて気づいた私たちができる支援は、地域、なんなら集落ごとで困っている内容は全く違います。とはいえ、1番多いのは「水」に関することです。そういう地域では、はじめに井戸が欲しいとなり、お金があれば正直簡単に井戸を掘れます。しかし、それ以上の問題として、維持するのが困難です。水が手に入るようになっても、しばらくすると井戸の部品を売ってお金にしてしまう人が出てきます。すると使えない井戸が増えてしまう。でも、護衛を雇って井戸を管理するとなると、お金がかかりすぎて続かなくなってしまう。
 この話からわかっているのは、教育がとても大切だということです。なぜ井戸を壊しちゃいけないかとか、どんな技術で水が掘れるのか、どうすれば治安を守れるのかという、ごく基本的な知識から身につける環境が大事です。多くの親もわかっていて、自分たちが受けられなかった教育を子どもたちには受けさせたいと願っています。しかし、明日食べるのが精一杯な状況で、仕事を手伝ってほしいとなってしまう。だから貧困の解決や教育という土壌を整えることが、難しいけど基本なのだと思います。

 その瞬間だけでなく、継続的な支援が必要です。すぐに良くなることはなくて、結果何も救えないってことを知って、何十年という計画で1つの村を変えるしかない。そうなると私1人じゃ無理だから色々な人の力が要る。SDGsの話もそういうことだと思います。すごく忍耐力のいる話なのです。だからみんなで取り組むことがポイントです。
 私は世界で報道されるような飢餓が起きている場所とかにはあまり行っていないので、貧乏だけど超幸せみたいな人が被写体であることが多く、意外と貧乏でも物も電気もなくても、教育がなくても幸福にやっていけるのも知っています。私のように明るい面を伝える人と、ジャーナリストの方たちが現地のリアルを同時に伝えることと、2つの側面を伝えていくことが、一番フェアで必要な情報の伝播なのではないかなと思います。

ヨシダさんの作品は、ヨシダさん自身のポジティブなエネルギーを伝える作品が多いですよね。

自分に誇りを持つことは、人を輝かせることだと気がついた

 私が撮影したものに共通しているのは生命力だと思っています。被写体である人からあふれ出る人間力が魅力です。撮影している全員が自分は幸せだと思って、自分に誇りを持っている。それだけで人はこんなに「かっこいい」し「綺麗」で、人を惹きつける力を持っていると言う事実が私はすべてだと思っています。その人間の美しさが作品となっていれば嬉しいです。

 アフリカやアマゾンなどで少数民族と接していると、自己肯定感が低い人っていないです。自分たちに確固たる自信があります。そこが私と違うなって思います。そして人と比べないですね。普通に会話していても「ナギは良いじゃん」とは言ってもらえないです。こちらから「かっこいいね」と褒めたら、「当然だよ」「知ってるよ」って返ってくる。日本人のように「ナギも可愛いよね」とは返ってこない(笑)。そういうところも違って良いなって思います。

 作品を見ての捉え方は、各々が自由に捉えてくれるものです。私はあまり深く考えずに撮影します。ただ私が伝えたいのは「アフリカとか少数民族という存在を知ってほしい」ということです。距離的にも遠いので、知らないから怖いなどというイメージで拒絶してしまうことが私は悲しいなって思っています。「私たちと同じ時代にちょっと遠い国だけど、こんなにかっこいい人たちがいるんだよ」ということが伝われば嬉しいです。
 実際に作品を見た人がアフリカの文化や海外に興味を持って、アフリカと日本をつなぐきっかけになったり、彼らを助けたいと思って医療関係に進んだ人たちがいたので、私の写真が何かのきっかけになればいいなと漠然と思っています。

最後に「ともに、生きる。」をテーマにしている江戸川区について一言お願いします。

 「ともに、生きる。」って、昔は助け合うという意味が強かったと思うのですが、最近、助け合うことはもちろん大事だけれど、干渉しすぎないことも必要だと感じています。個人個人が過度に干渉し合うことで、自分と違うものに対して攻撃的になるのを見受けます。自分の価値観も大切だけど、それがすべてだと思って、正義感を重ねて凶器にしてしまっている。多様性というのは、その人が持つ美しさや価値観を、「へぇ、それもあるのか」ぐらいで、肯定否定ではなく一旦受け止めるだけだと思っています。そのうえで考えが違うのであれば、「なぜそうなったの?」と聞いてみたり、「まあそういう考え方もあるか」と飲み込んでみたりすると納まると思います。「ともに、生きる。」というのは近いだけではなくて、一定の距離感とか寛容さとか、本当の違いをうまく考え続ける、曖昧にしたままで良いというわけではないのですが、そのくらいが心地良いのではないかと最近思うようになりました。
 ここ近年で撮影したドラァグクイーンたちの言葉を借りるならば、「ナギが美しいと思うものも美しい、そして私が美しいと思うものも美しい」みたいな価値観ですかね。あなたの美しいと思うのは間違いなく美しいと認めているけれど、自分の思う美しさはより美しいと。それは互いに自分を持ちながらも、すごく穏やかな「ともに、生きる。」だと思います。

プロフィール

ヨシダナギ/フォトグラファー

ヨシダナギ/フォトグラファー

1986年生まれ。
独学で写真を学び、アフリカやアマゾンをはじめとする少数民族や
世界中のドラァグクイーンを撮影、発表。
唯一無二の色彩と直感的な生き方が評価され
2017年日経ビジネス誌で「次代を創る100人」へ選出。
同年、講談社出版文化賞 写真賞を受賞。
以降、国内外での撮影やディレクションなどを多く手がける。