HINT
2021.03.30
「東京2020パラリンピック22競技“できる”宣言」を発表し、障害の有無や年齢を問わず誰もがスポーツを楽しめる環境の整備を促進する江戸川区。
その江戸川区で「共生社会」を根付かせるために必要なこととはなにか?
えどがわ未来カンファレンスの委員を務める「日本一パラを語れる女子アナ」久下真以子氏と、パラアスリートとして世界の舞台を知る上原大祐氏の対談を通して、江戸川区が目指すべき「共生社会」の方向性を探っていきます。
久下氏:本日はよろしくお願いします……と、改まってお聞きするのも少し気恥ずかしいですが、上原さんのご経歴からお聞きします。パラアイスホッケーを始める前はどのような子どもだったのですか?
上原氏:とてもヤンチャな子どもでしたね。地元の長野県で外を遊びまわっていましたから。春には川で魚を捕ったり、夏には山で山菜を採ってきたり。私が遊びに行った日は、夕食が豪華になっていたくらいです。
久下氏:子どもの頃から車いすだったんですよね。
上原氏:はい、生まれたときからです。しかし私は、車いすでは入れないようなエリアでも友達と一緒に遊びたかったため、這って移動したり、いろいろ工夫して、車いすに乗っているだけでは身につかない動きを毎日のように繰り返していました。そのため、自然と家の中でも這って歩くようになっていきましたね。パラアスリートとしての身体能力が備わったのは、そうした生活を送っていたからかもしれません。
また車いすに乗ったままでも「もっとできることはないか」とチャレンジばかりしていたため、使い方が荒く乗っていた車いすもよく壊してしまっていました。しかし母は、あちこちを這って擦り切れたズボンやボロボロの車いすを見ても、「大祐が心配だから」と家に閉じ込めるようなことはせず、“100%の「いってらっしゃい」”で毎日私を送り出してくれました。そんな母の勇気があったからこそ、私もこれだけ活発な人間になれたのだと思います。
久下氏:今の身体能力はお母様の育て方の賜物だったんですね!パラアイスホッケーに出会ったのは大学生の頃ですよね。
上原氏:そうですね。19歳です。
1998年に長野県でオリンピック・パラリンピックが開かれるなど、たびたび「パラアイスホッケーやってみなよ」というお誘いを受けることはありました。しかし、本格的に始めたのは、オリ・パラの翌年に、パラアイスホッケー日本代表が行っていた合宿を見に行ったことがきっかけでした。そこで初めてスレッジに乗り、パラアイスホッケーを体験してみて、その瞬間に「この競技は自分に合っている」と直感しました。
久下氏:そこからわずか数年で上原さん自身も日本代表に選ばれるようになり、ポイントゲッターとして2010年のバンクーバー大会では銀メダル獲得につながる決勝ゴールもあげていましたね。その後は、アメリカの“世界一の強豪チーム”とも呼ばれる「シカゴ・ブラックホークス」でも活躍されました。その頃のことをお聞かせください。
上原氏:バンクーバー大会で銀メダルを獲得しましたが、当時はまだ日本国内はパラスポーツが非常にマイナーだったこともありまったく注目されませんでしたね。しかし、バンクーバーのあるカナダやアメリカでは、パラスポーツはその頃から非常に人気がありました。
日本ではいまだに「パラスポーツ=障害者にしか関係のないもの」というイメージも残っていますが、アメリカ・カナダでは障害のない人も一緒にプレーする「パラスポーツは競技のひとつ」という意識が根付いています。私のいたチームでも、兄または弟のどちらかが障害のある兄弟が二人そろって所属したりもしていました。兄弟ならではの息の合ったコンビネーションも非常に見事でしたね。
久下氏:障害の有無に関わらず、一緒にスポーツを楽しめる環境というのはまさに「共生社会」そのものですね。それがいつも仰っている「友達ごと化」につながる環境なのでしょうか。
上原氏:はい。身近に障害者がいるからこそ気づけることはたくさんあります。例えばバスの中でも、障害のない人が車いすに乗った友達と一緒にバスに乗れば、「車いすスペース」の存在を実際に見て知ることができるでしょう。そうして「自分の友達に障害者がいたら」と想像する「友達ごと化」の力を養うためにも、障害のある人とない人が時間や場所、楽しさ等を「共有する」ことが大切だと思っています。
久下氏:私も上原さんという「障害のある友達」を通して学んだことは、少なくないですね。以前一緒にNHKへ向かったときにも、障害のない人同士なら渋谷駅から向かうのが当たり前でしたが、「渋谷駅からだと上り坂だから原宿駅から行こう」と言われて、ものすごくハッとしたことを今でも覚えています。そうした気づきを得るきっかけとして、どのような取組みがあると良いと思いますか?
上原様:小学校の体育で、パラスポーツを取り入れると面白いのではないでしょうか。障害者が身近にいなかったとしても、パラスポーツを通して「障害のある友達」をイメージしやすくなるはずですし、何よりパラスポーツは、プレーを「する」選手だけでなく役割分担が存在します。例えば、視覚障害のある水泳選手には「タッパー」と呼ばれる、選手の頭を軽く叩いてターンのタイミングを知らせる役割の人がついています。こうした選手を「支える」役割を体験したり、あるいはもっとゲーム感覚で、「応援の仕方が良かったらチームに得点が入る」といった、「観る」側にルールをつくったりするのも面白いですね。「する」にこだわらず、「する・観る・支える」どの役割も意味を持っていることを伝えながら、運動が苦手な子でも活躍できる仕組みを、教員のみなさんが考案していければ、体育でスポーツを好きになる子どもたちがもっと増えていくと思います。
久下氏:誰かが特別な役割を持っている、というわけでなく、誰もが公平に楽しめるのがパラスポーツの魅力のひとつですね。誰もが公平という考え方は、性別・年齢・国籍・障害の有無等に関わらず誰一人取り残さない「共生社会」を目指す江戸川区にも、今後さらに必要になってくるものかもしれませんね。本日はありがとうございました。
3大会パラリンピック出場(2006年トリノ、2010年バンクーバー、2018年平昌)
2010年バンクーバーパラリンピックで銀メダル獲得。
引退後、2014年NPO法人D-SHiPS32(ディーシップスミニ)/2016年一般社団法人障害攻略課/2019年株式会社DALAを設立し、パラスポーツ推進や自治体・企業と連携し街づくりや商品開発アドバイザーとして活動している。
その他、東京パラ応援大使、国土交通省アドバイザー、日本財団HEROsアンバサダーを務める。
大阪府出身。フリーアナウンサー、スポーツライター。四国放送アナウンサー、NHK高知・札幌キャスターを経て、フリーの道へ。2011年にパラスポーツを取材したことがきっかけで、パラ取材を志すように。キャッチコピーは、「日本一パラを語れるアナウンサー」。現在は、パラスポーツののほか、野球やサッカーなどスポーツを中心に活動中。2020年より、「えどがわ未来カンファレンス委員」に選出。