社会とともに生きる
昔、少年団の夏合宿で「ジェンカ」というゲームをすることになった。
まずはトーガとチームを作りジャンケンをする。勝った僕の後ろに回ったトーガが、僕の両肩を両手で持つ。
坂本九の軽快な音楽に合わせて、僕らはステップを踏んだ。左足を前に二回出し、右足を二回出す。両足揃えて前に一歩ジャンプ、後ろに一歩、前へ三歩——。それを何度か繰り返し、相手チームへと近付いていく。音楽が止まったところで、ぶつかった相手チームの先頭とジャンケンし、負けたら勝ったチームの列の後ろに繋がる。
つまり最初は二人組だったチームが、次には四人組になり、その次には八人組になっていくゲームだ。だけど僕とトーガはどのチームからも逃げ回り、ジャンケンをしなかった。最後に一回だけ勝って、優勝チームになろうという、ふざけた作戦だ。
やがて、ずっと勝ち続けて何十人かの列になったチームが二つ、最終決戦のようにジャンケンをした。結果、勝ったチームは百人を超える大軍団になったけど、逃げ続けた僕とトーガの二人組がまだ残っている。
軽快な音楽が再び鳴ってやがて止み、二人組の僕らと、百人王者とのジャンケンが行われた。ちょっと気まずいな、と思いながらも、僕らはあっさり勝ってしまった。うしゃしゃしゃしゃ、とトーガは笑い、僕らを見ていたマッキーやイワちゃんも笑った。
それは小学四年生の夏のことで、それから時が流れ、僕らは大人になった。僕はメーカーに就職してエンジニアになり、トーガは農業機器の営業マンになった。イワちゃんは製薬会社に入社し、マッキーは県警の刑事になった。
大人になった僕らに「ジェンカ」をする機会なんてないけど、もししたらどうするだろう。僕とトーガは、かつてのように逃げ回るのだろうか?
多分しない、と思うその理由を考えてみた。
遊びなのだから、みんなで楽しくするのが一番だ——。勝ち上がって嬉しい気持ちの膨らんでいる人に申し訳ない——。みんなが僕らと同じ戦略を取ったらゲームにならない——。というか、恥ずかしい——。子どもなら微笑ましいかもしれないが、さすがにバカっぽい——。
大人になることを「社会に出る」と言ったりするが、つまり自立して生活していく場のことを僕らは社会と呼び、そこにはルールや責任があることを知っている。明文化されたルールを守るということだけではなく、普段の社会生活のなかで、どう振る舞うべきかを考えることもある。
他人に迷惑をかけるべきじゃないし、なるべく不快な思いをさせないようにしたい。困ったときはお互い様だ。何かしてもらった時やお店なんかでは、ありがとう、と感じ良く言う。より良い社会を作ろうとする気持ちを、みんなが少しずつ持つために、まずは自分がそれを持ちたい。
企業のスローガンなんかで、社会に貢献する、という言葉をよく目にするが、それはただのお題目なんかではなく、僕らが割と本質的に思っていることではないだろうか? 社会の役に立つことは、実は何ごとにも代えがたい喜びだったりする。それによって人に認められたと感じ、自分に誇りを持てたりする。
ジェンカだって同じだ。逃げ回って勝つのも、まあ別に良いとは思うし、それはそれで楽しかった。だけど普通にあるべきやり方で優勝したら、そっちのほうが嬉しかったかもしれない。