ニューヨークに引っ越して最初に買ったものはステップスツールだった。高さ30センチあまりの木製の踏み台を二つ。他の荷物を待つ間、がらんとした新居を掃除しながら、物を置いたり座ったり、上に立って棚を整理したり……しようと思ったら高さが足りず、追加でさらに大きな脚立も買った。これが二番目の買い物だ。
アメリカの空間デザインは、人体寸法の基本が6フィート。あらゆるものが身長180センチの男性を基準に、彼らが窮屈でないように設計されている。私は日本女性の中では背のあるほうだが、それでも天井まであるつくりつけの食器棚やシャワーカーテンのレールには手が届かない。毎日の家事に踏み台が必須で、婦人服のサイズはXXSかXS、通販したSサイズの服がぶかぶかで返品したこともある。ところ変わればたちまち小柄な女である。
大きな国から母国へ帰ると、何もかもが自分に「ちょうどいい」ので驚いてしまう。スーパーやコンビニの棚は上から下まで取りやすい。電車では掴みやすい位置に吊り革がある。飲食店のフォークやナイフの握りもぴったりフィット、何より、ランチが完食できる。半分近く残して持ち帰って夕飯に回すなんてことはまず起きない。服だって、S・M・Lしかサイズ展開がなくてもどれかは必ず私に合う。と同時に、ほんの二つ三つしかないこの狭い「標準」から少しでも外れた人たちは、さぞや日常生活に苦労するだろうな、とも気づく。
外国での暮らしはきっとご不便が多いでしょうね、と心配されることがあるけれど、最近は日本で「あまりにも我々にばかりちょうどよすぎる社会、怖いくらいだな」と感じたりもする。もちろん私だってその画一性こそ当たり前と感じて育ったのだが。こんな部屋には住めないわ、ではなく、踏み台があれば便利だな、と考えるようになった今の暮らしで、身長が1.5センチ伸びた。家事をしながら背伸びする機会が増えたからだろうし、出る杭として打たれる機会が減ったからでもあるのだろう。日本へ移り住んだ外国人たちの身長が縮んでいないかのほうが心配になる。
6フィートの屈強な大男たちが古い建物の重たいドアを押さえて、私が通るのを待っている光景にも慣れた。そんなの一人で開けられるよ、と思わなくはないけれど、彼らは自分が「ちょうどいい」を生きている特権に自覚的で、同じ社会がその他の多くの人たちにとって全然「ちょうどよくない」ことを知っているから、そうしてくれている。後ろから小柄な老夫婦などが続けて来ていれば、今度は私がドアを押さえて待つ。めちゃくちゃ重い。けどまぁ、ほんの数秒なら私にだって支えきれないほどでもない。
こんな旧式のドアは撤廃してすべて自動化して、万人に「ちょうどいい」社会を新しく作ろう、という考え方もある。でも、誰かが決めた「標準」に自分を押し込めたり、他の人たちを押し込めたりするくらいなら、少しずつ順番に支え合うくらいの暮らしでも構わない。ここが自宅だったらドアストッパーを挟んでおくだろう。つい最近、絶対にズレない金属製のやつに買い換えたばかり。とても便利だ。
文筆家。東京都出身。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。著書に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』『天国飯と地獄耳』『40歳までにコレをやめる』『女の節目は両A面』ほか。最新刊は『我は、おばさん』。2015年より米国ニューヨーク在住。
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